「あ、ごめん、これ、前に一度言ったかもしれない」というと、「そうだっけ?」と彼はいう。
「昔はなんでも覚えていて、やな奴だと言われていたんだけど。だんだん、いろんなことを忘れるようになった。ま、それでいいのかなと思えるようになったのは、最近」
「うん、そうかも。忘れていくほうが幸せってことも、あるよね」
ヒトは生きるために忘却という能力を与えられた、と聞いたことがある。たしかに、いやな記憶や痛みをともなう思い出は、心の襞のどこか奥深くにしまって、二度と現れてこない方がいい。
けれど。
残念なことに、素敵な思い出も、あたたかな記憶も、同じように忘れていってしまうものなのだ。今、この瞬間のことですら。
幸せな時間を過ごしながら、この記憶も次々にこぼれ落ちていって、いつかはどこかに置き去りにされて、思い出すことすらできなくなるのかな、と考えると、せつない。
だから、この瞬間をしっかり感じておきたいのだ。瞼というシャッターを切りながら。
彼は眠そうだ。グラスの氷がカランと音をたてる。私は少しだけほほえんで、目を閉じた彼を見つめる。