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EDIT THE WORLD

カメラを持って東京と日本各地と世界を行くエディターのフォトログ

歌う青いドレスの女。

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ロッカーも、手荷物一次預かり所もない駅。1台だけ停まっているタクシーに乗って、目的地に向かう。日差しが強い。すれ違う車もほとんどなく、海岸には人気がなく、資料館にはお客もいない。

 

かつて、物理的にも心理的にもかの地とこの地を分ける関所として、歌枕になった場所。今は夏草が生い茂り、夏の終わりの蝉が時折鳴いているばかりだ。

仕事を終え、資料館でタクシーを呼ぶと、送ってくれた時と同じ女性ドライバーがやってきた。

 

帰りの電車までまだ1時間半あった。「ランチをするならどこがいいですか」と聞いてみる。ここにはほとんどお店はないけれど…と女性ドライバー。「私は、駅前のあの喫茶店がとても好きなの。いいと思うんですよ」

 

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そこは確かに「喫茶店」だった。

 

メニューを見て、ランチを頼み、あたりを見渡す。すると、歌う人、演奏する人の姿、姿、姿。笑顔とも悲しみともいえない表情を浮かべた歌う女性の姿が目に飛び込んできた。

 

その表情に妙に惹かれ、近寄ってみる。プログラムだった。この喫茶店でおこなわれていた、演奏会や歌の会。かつて、この空間に音楽があふれていたことがあったのだ。そして、その折々に、この演奏する人や歌う女性の絵がプログラムを彩った。

 

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私の視線に気がついたのだろう。「素敵な絵ですね」というと、微笑んで「版画なんですよ」と店主が教えてくれた。なかに、等身大ほどの、額に納まった版画があった。近づいてみる。今日の私と同じブルーのドレスを着ている女性の目は、やはり、笑顔とも悲しみともいえない。

 

「どなたがおつくりになった版画なのですか?」ときくと「親戚なんです」と店主のご婦人らしき人が教えてくれた。「大学で、版画を勉強してきてね」

 

演奏会のプログラムに、親戚が版画を提供する。なんと素敵なことなんだろう。こんな、小さな駅前の喫茶店で。作者は、女性だという確信があった。

 

「今もこの方は版画をおつくりになっているのですか?」

「いえ、今は…」と店主。「亡くなっちゃったんですよ」

 

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思いもよらない答えだった。作者が何歳頃の作品なのか。どうして音楽に関する版画ばかりなのか。なぜこの喫茶店のプログラムに作品を掲載することになったのか。…そして、どんな女性だったのか。

 

もはや口に出せない問いが、私の中に渦巻き、静かに落ち着くまでに少し時間がかかった。

 

店の奥にかけられていた小さな額に入った作品には、女性の名で署名があった。

ランチでお願いしたミートソーススパゲティは、グレービー・ボートに入って出てきた。甘くて、懐かしくて、少ししょっぱくて、美味しかった。